リズムに〈動かされる〉身体

今回のテーマは身体ということだが、テーマがあまりに遠大であるので身近な体験について考えてみたい。

 最近メタボが少しずつ気になりはじめた筆者は大学のジムに通っている。ルームランナーの上で走るためである。景色が変わらない中、一人で黙々と走るのはかなり疲れるものだ。そこでポータブルオーディオで音楽を聞き、気を紛らわしながら走るのだが、ある時おもしろいことに気がついた。走るテンポと曲のテンポが一致すると体がふっと軽くなるのである。まして曲のサビを迎えるとその軽快さは走っている自分が驚くほどであった。
 音楽無しで走っている時より、少し早めのテンポの曲をかけてみる。すると、音楽無しでゆっくり走る時よりむしろ疲労感が少なく、はるかに楽に走れるのだが、肉体的には適度な負荷がかかっているようで、走った後には心地よい疲労感が残る。現在の自分の体力水準より、少しきつい運動を一定のリズムでこなすことは、持久力の向上やカロリーの消費にはもってこいであろう。(なんてことを考えていたら、こんなNike + iPod Sport Kit(註1)という製品もあるようだ)
 日頃から私は、自分の身体は自分が動かしているものだと思っていた。しかし、この経験からひょっとして私たちの身体は予想以上に外界からの情報によって<動かされている>のにすぎないのではないか、と考えさせられたのである。

 そもそも、人間の脳は身体という制約によってその機能が制限されているという話を聞いたことがある。身体を動かしながら、外界から得た情報をフィードバックすることで、身体の動かし方が脳にインプットされ、洗練されていくようだ。今行っている動作は、かつて外界から受けた刺激の蓄積と、現在外界から得られる情報によって、身体が〈動かされて〉おきているのだ。

 この例は音楽という聴覚からの刺激についての例であるが、例えば建築空間にいる時もそうだろう。自分で居場所や、進路を選んでいるように見えて、視覚によって建築の中を〈動かされている〉のではないだろうか。『暗闇で、壁にぶつかって部屋を知覚する(註2)』という特殊な体験をすると物理的な壁、という通り抜けられない塊に自分が〈動かされている〉ことが強く実感されるが、普段視覚に頼ってばかりでは、空間に自分が〈動かされている〉ということは自覚しにくい。

 聴覚にしろ、視覚にしろ、そうした外界からの刺激の中でも、“リズム”をもった刺激は、私たちの身体をより“軽やかな動き”へと導いてくれるということなのだろう。例えば、フランク・ロイド・ライトの建築では、そうした視覚がもたらす居心地のよさを求めて、「Eye Music」と彼が呼ぶ、視覚へのリズムの提供がなされているし、寸法のリズムである“比例”はいつの時代もデザインの争点であり続けた。どうやら、リズムによってきざまれた刺激は、私たちの身体をより快適に導き〈動かしてくれる〉ある種のしかけであり、身体へのご褒美なのかもしれない。

註1)Nike + iPod http://www.apple.com/jp/ipod/nike/
註2)ダイアログ・イン・ザ・ダーク http://www.dialoginthedark.com/

★ランニングのお供にオススメの楽曲(時速12km程度のペース)ランキング。 
 いずれも、驚くほど足が勝手に前に進みます。ぜひ一度おためしあれ!(個人差が知りたい!)

?組曲『ニコニコ動画』:ほぼ一定のリズムで、曲が10分以上と長いのがいい。曲の切れ目にはどっと疲れを感じて、休憩したくなるから!。
いろんなボーカルのver.がありますので、飽きません。
?コンピューターおぱあちゃん(bertam ver.):足腰カクシャク元気に123♪ですから。
?透明人間(第一期東京事変Ver.):多少リズムのブレはあるものの、キーボードが打楽器状態ですので、シンクロが気持ちがいいです。
?会いたかった(AKB48) :気分はアキバ某所でのライブ観賞。冒頭からテンションがあがります。秋の坂道を自転車で疾走する気分を味わえます。
?Fake Your Way To The Top(Dreamgilrs挿入歌):バツグンの歌唱力がもたらすリズム感が憑依して、走り出したらとまらない。 Round and around!