もう、ドラえもんは、いないんだ。だから、強くならなきゃ。

この日がそう遠くないことはわかっていた。それでも、いざその日が来ると、ジョブズとAppleにまつわるすべての思い出が胸をかけめぐる。


僕は小学校に入る前からPCに触っていた。でも、その面白さに本当に目覚めたのは、10歳か11歳くらいの頃に家にあったMacintosh SE/30を使ってから。モノクロだけど、それまでの緑色のチカチカするMS-DOSとはまるで異なるセンスの良い画面とビジュアルな操作性に魅了された。

当時、ジョブズはもうAppleを追放された後だった。しかし、家にあったMacWorldやMacUserといった雑誌には、ジョブズの記憶が色濃く刻まれていた。コラムニストのデイビッド・ポーグが書いた短いフィクションがあり、その中ではAppleが「トロード」という脳神経に直結する次世代コンピュータを発明するのだが、Microsoftが事前にその情報を盗んで黒いトロードを先に売り出そうとする、というものだった。Appleがイノベーターであり競合が後追いをするという構図は、その頃から何も変わっていない。

同じ頃、Appleでエバンジェリストを務めていたガイ・カワサキが書いた「それでもMac大好き!―ガイ・カワサキのマッキントッシュ不用語辞典」(タイトルが当時のAppleのポジションを示している!)という実にマニアックな本を読んだ。その中に「Binary(二進数)」の項があり、本書によると「この世には天才とクズの二通りの人間しかいない、というスティーブ・ジョブズの世界観」とされていた。

中学に入った僕は、親から入学祝いにMacintosh LC IIIを買ってもらった。25MHz CPU、メモリ8MB、ハードディスク160MBのモデルだ。それでも初めてのカラーのMacで、これでやりたかったグラフィックとオーサリングができると意気込んだ。特に3Dグラフィックがやりたかったので、それまでの人生の貯金とお年玉の全てをつぎ込んで、レイトレーシングとアニメーションができて最も安価だった(それでも10万円した!)Infini-Dという3Dソフトを買った。

これだけの投資をしたからには後には引けない。僕は中学を拠点に、サッカー部をやめて、勉強もほとんどせず、グラフィックにのめり込む日々が続いた。14でおそらく日本で最年少でMacのユーザーグループを作り、仲間と制作に励んだ。毎日Mac雑誌を読みふけり、文化祭で展示をするためにAppleから何台ものマシンを借りたりもした。同級生からはコダマックと呼ばれ、そのうちただのマックになってしまった。

一方、Appleは方向性を失って、業績の低迷に伴い何人も経営者が交代し、次世代OSの開発もうまくいかず、95年から96年頃にかけて外部からOSを買うことになった。一時は今は亡きSunに買収される話もあったそうで、最終的にはMacのSystem 7を開発した後独立したジャン・ルイ・ガセーのBe OSと、ジョブズがAppleを追い出された後で設立したNeXTのNeXTStepの二つに絞られていた。ガセーはPowerPCに最適化されたBeの性能に慢心して適当なプレゼンをしたが、ジョブズは持ち前のプレゼン能力で当時の経営陣を魅了し見事Appleに復帰した。結果的にNeXTが後のMac OS XやiOSとなっていくことになる。

Appleに復帰したジョブズは、翌年には経営陣を追い出しiCEO(暫定CEO)に就任、同時に伝説的なThink Differentのキャンペーンを実施する。これは、内外へ向けて、Appleの存在意義を再認識させるものだった。

翌98年に、満を持して発表したのが、iMacだ。当時高校に進学しても僕は他の道は考えられなかったため、特に勉強らしい勉強もせず、個展を開いたりNHKの仕事をしたりしており、そろそろ進路を決めないとならない98年頃には道を見いだせず悩んでいた。そんな時、当時は荒い解像度の録画ビデオで見たiMacの発表会のプレゼンテーションを見て、SCSIポートのない緑色の一体型PCの成功に疑問を呈する向きも多かったが、僕はこれでAppleは復活すると確信した。なぜならAppleは当時でも最も優れた-ユーザーエクスペリエンスとインダストリアルデザインの開発能力を持ち、優れたOSも手に入れていた。あの当時のAppleに必要だったのは、Appleは復活するという勢い、モメンタム、その一点だけだったから。iMacはインターネットの普及というタイミングにマッチして飛ぶように売れ、Appleの復活ののろしを上げた。その様に、僕は再び立ち上がる勇気をもらった。同じ頃に、学年主任の先生がSFCのAO入試について教えてもらった。幸いそれまでの活動を認めてもらい、SFCに進学した。

大学在学中でもっとも印象に残っているのは2001年という年だ。21世紀の幕は、世界を変える二つの大きな出来事によって開けられた。9.11はアメリカの繁栄の陰にあるものを劇的に露にした。一方iPodは、テクノロジーや進歩主義がもたらす楽観的な未来のこの上ないシンボルだ。Appleに関する著作も多いスティーブン・レヴィは、著書「iPodは何を変えたのか?」の中で、9.11テロに遭い沈むアメリカと、その一ヶ月後に発表されたiPodのもたらした光との対比を克明に描いている。個人的には、発表当初はiPodの魅力がよくわからなった。ハードも洗練されていたとはいい難いし。僕がiPodを初めて買ったのは2004年のminiで、これは発売日に買った。以降、第5世代(30GB)、Shuffle、Touchと、iPodは日々の暮らしに音楽を添えてくれた。

SFCの学部を2003年に卒業後、そのまま大学院に進学した僕は、それまでの3DCGではない新しいことを始めようと思った。いろいろ面白そうな研究分野はあったが、最終的には主にモバイルの研究を選んだ。日本ではケータイからのインターネットアクセスがPC以上になされていたこと、そしてムーアの法則からその当時のPCやワークステーションに匹敵するモバイルコンピューターが実現することなどがわかっていたから、モバイルが伸びるのはわかっていた。僕はいろいろなシステムを開発したが、やはりケータイでは僕のやりたかったことを実現するには足りず、実用的なサービスを作れずに悶々としていた。

そんな中、2007年にiPhoneがすべてを変えてしまった。ジョブズがiPhoneを発表したとき、「今日我々は3つの新しい製品を発表する」といった。電話、タッチスクリーンiPod、インターネットコミュニケーションデバイス。それは3つじゃなくて一つだった。僕を含め観衆は、前二者には喝采を送ったが、最後の一つはそれほど盛り上がらなかった。しかし、ふたを開けてみると、iPhoneが起こした最大の革命は、フル機能のウェブをモバイルに持ち出したことだった。僕が何年も研究してきたようなサービスが、ついにマーケットで実現する!だから僕は研究をやめて、スマートフォンの世界に行くことにした。そうして今でもスマートフォンのサービスを作っている

去年の3月に博士号を取得してから、あてにしていた就職の話がなくなり、就職活動をしなければならなくなった。が、国内ではなかなか埒が空かなかった。それまでシリコンバレーに行ったことがなかったこともあり、5月に2週間ほど滞在した。いろいろな企業を訪問したが、その中でもAppleの本社は特別な経験だった。敷地は広い庭の中に建物が散在し、よく手入れされた庭を通りがかる人達はみな幸せそうな笑顔。見学に来ている子供も多く、とてもオフィスとは思えない楽園のような環境だった。他の大手も訪れたが、どちらかといえば淡々と仕事をしているという印象だった。その職場の環境は、仕事の状況をよく反映するものだ。まだジョブズのいたAppleに訪れることができたことは、生涯の思い出になるだろう。そして、結果的にシリコンバレーで出会ったVCの方のご紹介で、今の会社にいる。

今年6月、ジョブズはCEOとして最後のプレゼンを行った。発表したのはiOS 5とiCloud。これらによって、iOS機器はPCとケーブルで繋ぐことから解放され、スタンドアローンで使えるようになる。こうして、ジョブズは人生をかけて作ってきたPCから、クラウドデバイスへの橋渡しを自ら成し遂げた。これからの数年間で、PCは次第に進化を止め、業務用途の道具になっていくだろう。そして、iPhoneやiPadのようなクラウドデバイスこそが、僕らが生活の中で日々情報にアクセスするための窓になる。音楽も、テレビも、本も、ゲームも、すべてはクラウドデバイスを通じて消費されるようになるだろう。

こんな風に、僕のこれまでの人生は、常にジョブズと彼のプロダクトにインスピレーションを受けてきた。もう彼はいないし、残念ながら彼が種をまいた10年後の世界を彼自身が見ることはなくなった。ジョブズの、人間のためのイノベーションへの情熱、その実現における品質へのこだわり、それをビジネスの成功に繋げる努力。僕達はその全てのレガシーを引き継ぎ、世界をよりよく変える義務がある。それが、スティーブ・ジョブズという偉大な男への、なによりのはなむけだろう。

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