明日の編集を担うもの

iPad
僕は今iPadでこのエントリーを書いています。iPadはこのようなコンテンツの制作に使うこともできますが、やはり多くの場合にはコンテンツを消費する装置として用いられていることでしょう。こうしたタブレットコンピュータにおいて大きく期待されているコンテンツとして、電子書籍を挙げることができます。

出版業は、日本を含む多くの国においてネットの無料のコンテンツなどに押され、不況にあえいできました。紙の書籍に近いレイアウトと、課金を実現できるiPadのようなタブレットを、既存のノウハウやビジネスモデルを変えずにデジタル化による流通の拡大を実現する救世主のように捉えるむきもあります。一方ではAppleやAmazonのようなプレーヤが電子書籍によって既存の出版業を破壊するのではないかという危機感もあります。僕自身は、書籍の流通は今後かなりの割合がネットを通じて行われるようになると思いますが、以前のエントリー(マルチメディア2.0としての電子書籍に未来はあるか)で書いたように既存のパッケージによる出版はネットというメディアとの親和性が低く、ネットのコンテンツとしてはニッチにとどまると考えています。

ここで考えてみたいのが、編集という仕事についてです。メディアの文脈で編集といったとき、多くの人は出版における構成やレイアウトといった仕事を思い浮かべるでしょう。あるいは、映像をカットしてつなぐ作業のことだと思う人もいるでしょう。ですが、ネットにおける編集とはなんなのでしょうか?

ウェブマガジンの編集:レイアウトを超えて

今日のネットの仕事をしていても、綺麗なデザインやリッチなコンテンツは前提であり、そこに付加価値を作り出すことは困難です。多くのクライアントが求めるのは、よいコミュニケーションであり、それを実現するのは個別のウェブページのデザインなのでしょうか?それともサイトの構成やSEOなどの情報アーキテクチャなのでしょうか?

このような疑問を持っている中で、デザイナーの玉利君(@tamachangg)達が主催する勉強会で、greenz.jpというウェブマガジン(と本人達が自称している)を運営しているビオピオの鈴木奈央さんのお話を伺ったことがあります。詳しくは玉利君のブログにまとまっていますが、僕の印象に残ったのは、greenz.jpの閲覧者が増える過程で、Green Drinksというパーティーを継続的に主催してきたことが効果的だったとのお話です。またウェブもGreen DrinksもTwitterを活用することで、それぞれの場面で生まれたつながりを継続し、コミュニティの形成につなげています。

僕はこのお話を伺っていて、奈央さん達の活動はウェブマガジンの編集という枠に収まるのかという疑問が頭をよぎると同時に、Cahiers du Cinemaというフランスの映画雑誌のことを思い起こしました。

ゴダールやトリュフォーによって映画論が展開された同誌は、メディアとしてのみならず、執筆者による映画制作の実践にもつながり、フランス映画におけるヌーヴェルバーグというムーブメントを起こしたコミュニティの中心となりました。このように、雑誌というメディアには元々情報を提供する機能だけでなく、コミュニケーションのハブとなりコミュニティやムーブメントを形成する力があります。(だからこそ「論壇」などという概念が成り立つわけです。)

編集の概念を拡張する編集工学

メディアにおける編集というのは、先ほども述べたようにその中の平面や時間軸やリンク構造のデザインだという考え方が一般的です。ですが、そうしたデザインがそもそもなんのために行われるのかといえば、テキストや画像、動画などのコンテンツをより効果的に届けるためです。目的は本来効果的なコミュニケーションの実現にあって、編集はそのための手段でしかありません。

この考え方は僕のオリジナルではなく、松岡正剛氏が「編集工学」として長らく提唱してきたものです。1996年に出版した「知の編集工学」の中で、松岡氏は編集を以下のように再定義しています:

ようするに、編集というしくみの基本的な特徴は、人々が関心を持つであろう情報のかたまり(情報クラスター)を、どのように表面から奥にむかって特徴づけていくかというプログラミングだったのである。ラグビーの試合とか、グルメ情報とか、宇宙開闢のビッグバンとかの「情報の箱」に近づく人々に、次々に奥にある情報の特徴を提供していく作業、それが編集というものなのである。

松岡氏はやはり「遊」という雑誌の編集を実践する中で、80年頃に編集工学という言葉を着想したと述べています。しかし、編集工学の考え方は、メディアの研究者などには注目されたものの、長らく広い理解を得ることはありませんでした。それは、日常生活の中で情報の編集を行うのは主にメディアの制作者に限られていたからです。ところが、PCやウェブの出現に伴い誰もがクリエイターであり、編集者でもあるという今の時代にこそ、松岡氏の理論は有効性を持ちます。今日のネットにおけるメディアのデザインにも有用な示唆を多く与えてくれるので、興味があればご一読をおすすめします。

話がそれましたが、松岡氏の貢献は、編集を、コンテンツのデザインという狭い概念から解き放ち、情報への文脈を与えるあらゆる行為に拡張したことです。このように考えるならば、先のgreenz.jpの例におけるパーティーの主催やソーシャルメディアの活用も、メディアの編集ではないどころか、むしろ今日においてはページのレイアウトなど以上に重要な情報にアクセスする文脈の提供だということができます。

ネットにおけるアクセス経路を巡る闘争

ネットについて考えると、このようなコンテンツへのアクセス経路が、重要な役割を果たしています。その最高の例は、Googleでしょう。Googleは検索エンジンによってウェブのコンテンツへアクセス経路を一手に握る、いわばウェブを自らのアルゴリズムによってうまく再編集することに成功したわけです。

ところが、その支配が盤石に思われたGoogleに強力なチャレンジャーが現れました。つい先頃アクティブユーザーが5億人を突破したと発表したFacebookです。Facebookの今の戦略は明快で、Facebookのオブジェクトとして本や映画などの商品を含む。あるいはそれらについてのウェブページもFacebookと連携可能にして、Likeボタンを取り付ける。そこで得られたユーザの好ましいと思うコンテンツを、そのフレンドに推薦する。検索はユーザが能動的に探したいものがないと機能しませんが、この仕組みは既存の広告のようにプッシュで届きつつ、フレンドからの口コミとして機能するのでターゲティングされた高い効果が期待できる。このような利点から、Facebookはコンテンツへのアクセス経路としてGoogleを超える影響力を持ちつつあります。

インフォコモンズ:ソーシャルがコンテキストになる

このように、ソーシャルメディアを通じたリコメンデーションがコンテンツの流通経路となり、またそのことによって新たな中間共同体が形成されるという未来像を提示したのが、ジャーナリストの佐々木俊尚氏です。例えば「電子書籍の衝撃」において佐々木氏は以下のように述べています:

では、パッケージでないとしたら、いったい何が本にとって意味を持つようになってくるのでしょうか。
それを私は、本のコンテキスト(文脈)だと考えています。

ここで佐々木氏の言うコンテキストとは、上述の情報アクセスの経路とほとんど同義です。そして、佐々木は、現在のソーシャルメディアの先に、情報共有によって緩やかにつながるコミュニティを情報共有圏(インフォコモンズ)と定義します。(ここではインフォコモンズの詳細には触れません。詳しく知りたい人は佐々木氏の「インフォコモンズ」などを読んでください。非常に刺激的なネットメディア論でありコミュニティ論です。)

まとめ:明日の編集とは

ここまで来て、ようやく本エントリーの出発点である、ネットにおける編集とは何か、という疑問に答えることができます。編集とは、コンテンツに文脈を与えて、そのアクセス経路を設計し、適切な人に適切な情報を届けること。その役割は変わりません。一方で、今日におけるインフォコモンズを介したコンテンツの流通を前提とすると、従来のようなパッケージングは相対的な重要性を低下させます。そこでの編集とは、誰と誰が繋がり、その間でコンテンツが流通するアーキテクチャを設計し、操作することだと定義できます。

このようなコミュニケーションのデザインは、従来のメディアの編集者や代理店はもちろん、ネット専業の代理店などにおいても、方法論が確立しているとはいえず、日々試行錯誤です。しかし、それを確立できた者こそが、明日のコミュニケーションの担い手となることでしょう。

13 thoughts on “明日の編集を担うもの”

  1. Pingback: 下田賢佑
  2. そうそう。論壇をつくりたい。:@a_kodama 雑誌には元々情報を提供する機能だけでなく、コミュニケーションのハブとなりコミュニティやムーブメントを形成する力がある。(だからこそ「論壇」が成り立つわけです)http://plusi.info/archives/1250

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